イムラアートギャラリー [京都/東京]

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イムラアートギャラリー東京では、土屋貴哉+アタカケンタロウ展「昨日はどこへいった。」を開催いたします。

土屋貴哉(美術家)とアタカケンタロウ(建築家)コラボレーションによる本展「昨日はどこへいった。」は、2013年春、当ギャラ リーの新スペースへの移転にあわせて、スペースの受渡し後の改装からオープンまでの過程と時間を扱い、好評を博した同名のメディアイ ンスタレーションの続編。今回は当スペースオープン後の様子も追加収録し、スペースの立ち上げからクローズまでの時間を包み込んだ完 全版。1周/分の速度で回転するプロジェクターの光が、照射先の過去の層を薄皮をめくる様に原寸大で映し出す。

およそ1年半に渡り、ギャラリーの中心にカメラを据えて定期的に15°ずつ回転させながら撮影し、数千枚におよぶ撮影画像をつなぎ合 わせた長尺画像を、「一分間に一回転するプロジェクター」で撮影した同じ場所に回転投影しつづける。回転するたびに徐々に壁が解体さ れたり新たな壁が作られたり、壁の色が変わっていったり、展覧会の様子が映し出されていく。映像はやがて(人の記憶がそうであるよう に)時系列を行ったり来たりし始め、やがて改修前のギャラリーの状態(ふりだし)へと戻っていく。

■協力:端裕人氏(写真家)、秋廣誠氏

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「昨日はどこへいった。」

よく、時間だけは全ての人に平等な資源だといわれたり、時間感覚は年齢の逆数に比例するといわれる。
そんな平等な資源の中、重力に従い垂直方向に落下する私。衝突までのコンマ数秒間のできごとは、やっぱりさほど長くも感じられず結局コンマ数秒 間、一瞬の時間感覚だった。

2012年暮れ、われわれは幾度となく西荻窪の路地裏の暗黒大陸で、安酒に浸りながら打合せを繰り返した。いつもの店のいつもの席に座る。注文す る肴も酒も気付くと毎回だいたい一緒。店主は勿論、集まってくる客たちも何となくいつも代わり映えのないなか、毎回違うのは打ち合わせの議題と本 日のおすすめくらい。いつも19時過ぎから始まったわれわれの打合せはこんな風に繰り返された。
打合せはいつも順当に進みそして酒も進んだ。けれど本日のおすすめ以外ほとんど変化のない状況(シーン)に毎回囲まれてると、同一チャプターが繰 り返し再生される物語のなかに居るような違和を感じる。幾分酔っていたせいもあるだろう。それはシールのように、われわれの周囲から時間そのもの がめくれ上がっていくような、またはわれわれの所属とは異なる時間が周囲に貼り付いていくような、不思議な感覚へとつづいていった。

そんないつかの昨日を、骨盤を割った私は松葉杖を両手に持ち、病院周りのいつもの順路を時計回りにリハビリ歩行を繰り返しながら思い出す。

ひとの記憶はその時の周囲の状況と紐付けされセットでインプットされるというが、われわれにしてみたら、その周囲の状況にほとんど差異がない為、 打合せを重ねるにつれ、話し合ってきた内容の時系列がどんどん崩壊していき、トピックスのヒエラルキーもだんだん曖昧になっていった。今になって みると、毎回欠かさず本日のおすすめを注文してたら幾分この時系列が崩壊していく症状も和らいだんではないかと思う。

あれからどれくらいの時が経っただろうか、時系列が分らない。けれどおよそ一年半。
当スペースのこけら落として開催された前回展「昨日はどこへいった。」ののち、この場で開催された幾つもの展覧会。それらの記録も追加収録した今 回は、この場の立ち上げからクローズまでの時間を包み込んだ完全版。
時をいかに記述するか、視界をいかに切り抜きすくい上げるか、そしてそれらをどのように定着できるか。
記憶は嘘をつく、昨日はどこへいった?

土屋貴哉(土屋貴哉+アタカケンタロウ)

イムラアートギャラリー東京では、木村秀樹個展「Charcoal」を開催いたします。
1974年に制作した「鉛筆」シリーズが高い評価を受け、東京国際版画ビエンナーレで京都国立近代美術館賞を受賞し、鮮烈なデビュー を飾った木村秀樹は、国内外で活躍する日本を代表する版画家の一人です。その一方で、ガラスやカンヴァスを支持体とした絵画作品も制作しています。本展では、2012年から取り組んでいる版画作品「Charcoal」シリーズから新作を発表します。

「Charcoal」シリーズは、以下のプロセスを経て作られます。
原寸大の炭の写真を和紙にインクジェットプリントします。さらにシルクスクリーンで和紙の両面に印刷します。印刷された和紙を焼き鏝で部分的に焦し、これに切り込みを入れて折り返し、3次元(作者の言葉で言えば、2.5次元)の造形物にする。

こうして作られた「Charcoal」シリーズは、実物とイメージの境界、表と裏の境界、二次元と三次元の境界を超越するものとなります。これは、木村秀樹が一貫して続けている"平面にまつわる造形の実験"の新しい試みです。イムラアートギャラリーでは2011年以来の個展となります。ぜひご高覧ください。

イムラアートギャラリー東京では、桃田有加里個展「TIME SLICE」を開催いたします。

桃田の作品は、キャンバスに置かれたビビッドな色彩が印象的です。自然界には存在しない色彩を重ねることで、現在の時間軸から切り取られた空間をつくりだします。そこでは時間が止まり、同時に"記憶"もとどまります。

どこかはわからないけれど、いつか見たことがあるような、そんな風景を思い出させるのは、桃田が自身の"記憶"を整理するように、そして記録するために描いているからかもしれません。

イムラアートギャラリー東京では初めてとなる個展をぜひご高覧ください。


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 今日にいたるまで、さまざまな人の手によって表現された絵画の中に、私は作家の生涯や心の密度、その絵を描くのに費やした時間が凝縮して投影されているように感じます。近年、人間という一つのゆっくりと進化し成長する生命が、スピードや効率を優先する社会にいる中で、私は絵画の中にある静止した時間に魅了されています。また、生命を有しない人工的な物質にも共通した時間の静止を感じ、その中に、人間の"記憶"という時とともに混濁するものを保存する力があるように思われ、私は非常に興味をそそられています。
 自身の表現は記憶を整理することでもありますが、作品の中に"時間の静止"を織り込みたいと思ったとき、自然界には存在しないビビットな色彩や、一つの画面に異なる技法を用いることでコラージュ的な空間の構築を目指すようになりました。主観ですが人工物は時間が止まっているような印象を受けるため、私はそういったところに現実とのつながりを絶つ瞬間を感じ、キャンバスに無時間的な空間を記録するために制作を続けています。

桃田有加里
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イムラアートギャラリー東京では、「Group show 橋爪彩・佐藤雅晴・土屋貴哉」を開催いたします。近年、美術館を中心に発表を続ける所属作家3名の本展では、各作家の過去の主要作品を展示いたします。本展を通して、作家それぞれの展開の一貫性と多様性を楽しんでいただければと思います。


橋爪彩は、1980年東京生まれ。東京芸術大学修士課程修了後、さらなる探求のために、ベルリン・パリへと拠点を移し、ヨーロッパで生活しながら制作をするという、自身の状況と日々の記録から生まれた「Red Shoes Diary」シリーズを展開。2010年には日本に戻り、西洋中心主義的美術のあり方を問う「After Image」や「innocence, ignorance and insanity」シリーズを制作しています。
2013年の「DOMANI展」(国立新美術館)で、渡欧前の作品から最新作までを一堂に展示し、その画業が高く評価されました。今年は、「ノスタルジー&ファンタジー展」( 国立国際美術館)、「高松コンテンポラリーアート・アニュアル展」(高松市美術館)に出品、またコスメブランド ポーラ『RED B.A.』のメインビジュアルを手がけるなど、活躍目覚ましい若手作家のひとりです。
本展では、島田雅彦著『美しい魂』の装丁を手掛けた2003年当時に制作した作品を含め、「Red Shoes Diary」以前の作品を中心に展示いたします。


佐藤雅晴は、1973年大分生まれ。東京芸術大学修士課程修了後、2000年にドイツに渡り、帰国するまでの10年間に独自の表現を生み出しました。パソコンに取り込んだ実写データの輪郭をトレースし、油絵を描くようにパソコンで色彩を重ねて制作される佐藤のデジタルペインティングは、写真のようで写真ではなく、絵画ではあるがそこに絵具のマチエールはないという、独特の空気感をまとっています。アニメーションは、デジタルペインティングのデータをつなぎ合わせて制作されます。
2013年には「ナイン・ホール 佐藤雅晴展」川崎市市民ミュージアム(神奈川) 、「楽園創造 -芸術と日常の新地平- 」ギャラリーαM(東京)の二か所で個展を開催。今年は、「日常/オフレコ」KAAT神奈川芸術劇場(神奈川) 、「Duality of Existence - Post Fukushima」フリードマン・ベンダ(ニューヨーク) に出品するなど、国際的にも活躍しています。
本展では、ドイツから帰国した2010年以降のデジタルペインティングとアニメーションを展示いたします。


土屋貴哉は、1974年東京都生まれ。東京芸術大学大学院修士課程修了。1990年代より、日常の環境システムにきわめてシンプルな方法で介入し、知覚に揺さぶりをかける作品を発表。それらは、映像・写真・平面・立体・インスタレーションなど、多メディアに渡っています。近年は新たな試みとして、ネットアートシリーズも手掛けています。
2013年にはイムラアートギャラリー東京の改築を題材とし、建築家のアタカケンタロウとともに、場の変容と時の顕在化を試みたインスタレーションプロジェクト「昨日はどこへいった。」を発表。
今年、「Uphill」横浜市民ギャラリーあざみ野エントランスロビー(神奈川) 、「1974年ニ生マレテ」群馬県立近代美術館(群馬) に出品、また8月にはサンパウロで開催されるメディアアートの国際展「FILE 2014」にも参加するなど、国内外で活躍しています。
本展では、立体、写真、ネットなど様々なメディアで展開される過去作品を展示いたします。

イムラアートギャラリー東京では、三好彩個展「本当」を開催いたします。
三好彩の作品は、様々な色彩の油絵具が時に厚く、ダイナミックに重ねられ、力強い存在感で迫ってきます。描かれるモチーフは、体内の臓器を想起させるような曲線や、シンメトリーの図柄、具象とも抽象ともとれる不思議な形体で、それらが、強烈な色彩で画面いっぱいに広がります。

三好は、自身の制作について、次のように語っています。
「『肉体を通して感知する外界の現象、という本当』よりも『精製されたイメージとしてもう一度脳の中に映し出される現象、という本当』の方が、私にとっては、より重要で、より愛おしく、記録すべきものであると感じている。
毎日生きていく中で、ふとした瞬間、流動する思考や五感が引き金となって、突然強烈にイメージさせられる、人のような獣のような生きるものの気配、その動きや視線、風景、無機物、光、音など、様々なイメージの寄せ集めの記録である。」

2013年7月以降制作した新作を展示いたします。大胆な筆遣いで描かれる、自由奔放で、エネルギー溢れる「本当」の世界を是非ご高覧ください。

この度、イムラアートギャラリー東京では、染谷聡個展「咀嚼する加飾Ⅱ」を開催いたします。

染谷はこれまで、動物や人体などの有機的な曲線が強調されたフォルムを持つ胎(たい)とよばれる 素地の上に、蒔絵や螺鈿、沈金でポップな図柄を描いた作品を制作してきました。こうした加飾表現 は、作家自身の記憶や日常、イメージを表出するための行為でもありました。

本展では、昨年の個展「咀嚼する加飾」に引き続き、工芸の「用」を意識した新しい加飾表現の展開 が見られます。染谷が日常的に収集している気になったものに、漆が寄り添うように施された新作で は、漆そのものが加飾の一部となり、染谷なりの加飾論として展開されています。

工芸の「用」とは、器物や蓋物などのように明確な機能がある「物への用」のみならず、そのものと 人の間に存在する「心への用」でもあります。「そのものに用途は無くとも惹かれる心があれば用を 持ち得るのである。」という染谷の言葉のとおり、道ばたに落ちている石や木の枝にも「用」は存在 しているのです。

東京では初めての個展となる染谷聡の遊び心あふれる作品を是非ご高覧ください。

イムラアートギャラリー東京では、2014年5月24日(土)から6月15日(日)まで、三瀬夏之介個展「Vernacular Painting」を開催いたします。本展は、三瀬にとってイムラアートギャラリーで4回目の個展となります。展覧会初日には、モデレーターに小崎哲哉氏を迎え、赤坂憲雄氏(民俗学者)と三瀬夏之介のトークイベントも開催いたします。

 三瀬夏之介は、和紙や墨などの従来の日本画材を用いながら、アクリル絵具やコラージュなど様々な素材や技法を柔軟に取り込み、自身に身近なモチーフと歴史を感じさせるモチーフを混在させ、「日本画」における「日本」のあり様を問うてきました。1995年に地元奈良で阪神大震災にあい、精神的に絵を描くことができなくなった時期を経て、2009年に山形に拠点を移し後進の指導にあたっていたとき、東日本大震災が起こりました。三瀬はこれらの経験から、この不安定な世の中を生きるために、自分の身体感覚や主観性を手放すことなく、しかしそれらを判断基準とする私的な感覚による絵画を超えるものを強く希求するようになりました。そして近年、そのような現代美術は民俗学的アプローチによって可能になるのではないかと考え、以下のように発言しています。
「自己言及的な絵画ではないものを、個人から出発しつつも、その抽象度を上げたところで、「私」の絵というより、「私たち」の絵をつくりたい。僕が作ったものがみんなに共有されて、様々な語りを生む依り代になるようなイメージ。」
「土地の奥底に降りていって、資料を読んだり、聞き書きした歴史を調べていくことで、民俗学的なアプローチによる現代美術の可能性が開けてくるのではないか。それは、町おこしとか、地域型のアートプロジェクトのようなものではなくて、「美術」の成立以前の状態に立ち返るようなもの。」

今回、三瀬は民俗学的アプローチのよる現代美術の一つのあり方として、「Vernacular Painting」という言葉を考えました。
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「ヴァナキュラー(vernacular)」とは「ある土地に固有の」、「風土的」などと訳される言葉である。近代におけるヴァナキュラーの概念は主に建築分野からはじまった。
バーナード・ルドフスキー『驚異の工匠たち-知られざる建築の博物誌』によれば、その特性は三つ。
建築家なし、職人なしによる無名性、非作家性と関連する『非職業性』。
土地の気候に適した環境制御と、素材の現地調達による『風土性』。
魔術的で非均質な身体を包むコスモロジーとしての『空間性』。
である。ここ最近の私の制作、発表の場面において、この概念がずっと頭から離れないのだが、思えばこれらは近代以降に誕生したアーティスト像を否定するものばかりだ。
中心と辺境との関係が機能しなくなって久しい今、この言葉をキーワードに震災以降の絵画の可能性を考えてみたい。

三瀬夏之介
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2013年4月、国際芸術センター青森での個展を皮切りに、平塚市美術館(2013年7月)、リアス・アーク美術館 (2013年11月)、浜松市秋野不矩美術館(2014年2月)、 奈良万県立万葉文化館(2014年3月) と大規模な回顧展を開催してきた三瀬の、新たな展開をぜひご覧ください。

この度、イムラアートギャラリー東京では、佐藤雅晴個展「ヒロコの肖像」を開催いたします。新作の平面作品7点を展示する予定です。
佐藤雅晴は1973年に大分に生まれ、東京芸術大学、同大学院卒業後、2000年に渡独。10年間のドイツ滞在期間中に実写を写しとるという手法によるアニメーション制作を始めます。制作時間の大部分はパソコン上でのトレースに費やされます。佐藤は、当時滞在していたデュッセルドルフの街並や、学校やバイト等で知り合った知人をビデオカメラで撮影し、パソコン上で「何かを強調することも筆跡等を残すこともしないで、なるべく撮ったものに近づけるようにしています。」 と言うように、終始同じルールと手順でトレースしてゆきます。実写に近づけようとする作業や、そうして出来上がる現実の世界を模倣したかのようなイメージは、言葉や習慣の違い等、自分と社会を隔てる溝の深さを認識しつつ、社会との接点を探り続ける作業やイメージと近いのかもしれません。
2010年の帰国後も、対象物から一定の距離を保ちつつも緻密に実写の表面を写しとるという手法によって、知人の子ども、ウサギとクマの着ぐるみ、蒲鉾工場等、様々な動作、風景や光景をモチーフに作品を作り続けています。
本展で発表する平面作品は実写との距離が限りなく近く、一見するとまるで写真展のようです。しかし、それらの作品群が精巧にトレースされたものだと、そして対象物との間に一定の距離を持ち合わせていることに気づいた時、私たちがものを見る際にそれを所有しようとする視線は見事にはねかえされるのです。
混乱状態を積極的に作り出し、鑑賞者自らものごとの本質を再考させるよう促していく作り手の姿勢がうかがえます。今回選んだ「女装した青年の写真」というモチーフがその混乱をより複雑なものにすることは間違いないでしょう。佐藤雅晴の作品をこの機会にぜひご高覧ください。

協賛 | 株式会社データフォト
       株式会社カシマ

イムラアートギャラリー東京では、宮本佳美 個展「Canon」を開催いたします。

宮本佳美は、かねてより植物や人物を、独特な光の射すモノクロームの世界で表現してきました。宮 本の描く瑞々しい花たちは、現実には枯れた花を水中で甦らせた姿でもあります。また、人物のポー トレートは、大量消費されているイメージの中から選びとられた女性たちの、どこか憂いを帯びた表 情を捉えています。

死んでいるものと、生きているもの。それは、宮本が制作にあたり、テーマの一つとして考えている ことです。死んでいるものを生きているように描くとき、そこには生きているものを描くときには見 えない一瞬の幻想が現れると言います。彼女なりの基準(Canon)によって生み出されたその幻想は 綿布の上に定着され、普段目にすることのない世界が広がります。

関西を中心に活躍してきた宮本佳美の東京では初めてとなる個展を是非ご高覧ください。

イムラアートギャラリー東京では龍門藍個展「菊とサカナ」を開催いたします。
 龍門藍(1984年岡山生まれ)は、形式化した日本の伝統文化に、現代の日常的な感覚を取り入れて、独自の世界観を描きます。それは、いま日本で生活している私たちの曖昧な感覚に、的確で斬新なイメージをあてはめてくれます。
 イムラアートギャラリー東京での初個展となる今回のテーマは「菊とサカナ」。文化人類学者のルース・ベネディクトによる日本研究の著書で、後の日本人論の源流となった『菊と刀』へのオマージュです。2010年からスタートした「観光地シリーズ」とともに展示し、外の視点から見た日本を、日本の内にいる彼女が、深い洞察力で軽妙に描き出します。
 4年ぶりとなる龍門藍の個展をぜひご高覧くださいますようお願い申し上げます。

イムラアートギャラリー東京では、田中武個展「夜咄(よばなし)はこれから」を開催いたします。

田中は、日本画という言葉に疑問を呈し、菱田春草の「兎に角日本人の頭で構想し、日本人の手で制作したものとして、凡て一様に日本画として見らるる時代が確かに来ることと信じている」という言葉を引用しながら、「作家自身がこれこそが日本画だと強く信じるものを、ただひたすらに打ち出していくこと」が肝要であると言います。

田中の代表作である「十六恥漢図」シリーズでは、欲望に憑かれた女性の手で印相を結び、周りには狩野派の粉本から引用した草花を配するなど、日本美術の伝統的な表現を受け継ぎながら、西洋絵画の描法を下地とした現代的な絵画へと昇華させています。

本展覧会では、「十六恥漢図」シリーズの新作を含め、夜の欲望をテーマにした作品を展示いたします。夜という欲望が匂いたつ時間に、人はどんな姿で己の欲望と向き合うのか。夜半の冬、それぞれの夜咄に耳を傾けつつ、田中の描く夜の世界に浸ってご高覧ください。

イムラアートギャラリー東京は、神楽坂より移転し、2013年5月11日(土) 3331 Arts Chiyoda #206にオープンいたします。

新たな場所でのギャラリー再開にあたり、現代のヴィジュアルアートを扱うギャラリーとして、人の知覚を巧に操る土屋貴哉(美術家)とアタカケンタロウ(建築家)に、ギャラリーの新スペースを委ねてみたいと思いました。
土屋貴哉とアタカケンタロウよるコラボレーション展「昨日はどこへいった。」は、ギャラリースペースの改装からオープンまでの過程と時間を扱った、映像・建築・オブジェ・ペイントなどの様々なメディアと手法が交錯するインスタレーションプロジェクトです。

撮り集めた「昨日」の集積が、映像としてスペースの壁面に投影され、現存するオブジェ・ペイント・建築と重なって関わりを持ちはじめるとき、私たちの目には昨日と今日が不思議に重なり合い、時系列はねじれ、世界のもう一つの相を感じることができるでしょう。
「昨日はどこへいった。」 人の不確かで柔軟な知覚と記憶を介した途端、確定されたはずの「昨日」を探すのは、容易ではないかもしれません。
ぜひご高覧いただきますようお願い申し上げます。

■協力:端裕人氏(写真家)、秋廣誠氏
■協賛:ターナー色彩



土屋貴哉
美術家。1974年東京都生まれ。2001年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。90年代後期より、日常のものごとへの最小限の介入をほどこした作品を制作。それらは、映像・写真・平面・立体・インスタレーションなど、多メディアに渡り展開される。近年は新たな試みとしてPC上で展開するプログラム作品シリーズもスタート。

アタカケンタロウ/安宅研太郎
建築家。1974年埼玉県生れ、2001年東京芸術大学大学院美術研究科建築専攻修士課程修了。2003年にアタカケンタロウ建築計画事務所を設立し、住宅から集合住宅、研修施設、幼稚園、パブリックアートなど様々なプロジェクトを手掛ける。2007年東京建築士会住宅建築賞、2011年日本建築学会作品選奨など受賞多数。現在、東京芸術大学、芝浦工業大学、京都造形芸術大学など6つの大学で非常勤講師を勤めるほか、岩手県遠野市で馬の育成とその堆肥による有機農業を中心とした地域づくりに取り組んでいる。

「ニッポン画」とは

一、今現在の日本の状況を端的に表現する絵画ナリ
一、ニッポン独自の「笑い」で諧謔を持った絵画ナリ
一、ニッポンに昔から伝わる絵画技法によって描く絵画ナリ

これは作家が自ら「ニッポン画」と呼ぶ絵画の定義です。伝統的日本絵画の技法で描かれる山本太郎のニッポン画には古典と現代のモチ ーフが混在しています。それは日本固有の文化と輸入文化が共存する混沌とした現代日本の視点から日本絵画を再構築するものです。しか し古典絵画のパロディーのようにも見える彼の作品からは、日本画に対するアンチテーゼや今の日本の現状への攻撃的な反省は感じられま せん。現代日本人の生活風景をユーモアあふれる目線で描きだし、意表を突くモチーフの組み合わせで構成されるニッポン画には、異質な ものを違和感なく生活に取り込んでしまう日本人の感覚に対する愛着が込められているかのようです。

ここ数年山本太郎が題材としているのは日本の古典文学。とりわけその中でも謡曲を題材とした作品はこれまでも多く作られてきました。 しかし、謡曲は「文学」といいながら演劇の台本でもあるため、文章だけで完結しているものではなく能舞台で演じられることで初めて完成す る物語です。

そこで、今回の展覧会のテーマは「能楽」。「能舞台のもつ清涼感、緊張感、そして圧迫感や解放感。そういった雰囲気そのものを絵画化し て固定できないか、難しいとはわかっていてもそうした挑戦をしてみたくなったのです。」という作家の試みにより実現する展覧会となります。 張りつめた緊張感漂う作品にはもちろん山本太郎ならではの遊び心も絶妙に組み込まれています。

鑑賞者の心を引き込む日本芸能独特のリズム感「序破急」を帯びる山本太郎の個展を是非ご高覧ください。

※個展開催時期に新宿「柿傳ギャラリー」で行われる「宮川真一展」にて掛軸、山本太郎デザインの宮川真一とのコラボレーションお茶碗が出品されます。5月21日から28日まで。26日土曜日に立礼によるお茶会があります。山本太郎もお手伝いで参加予定。

この度、イムラアートギャラリー東京では、2012年3月24日(土)より、中山徳幸個展を開催いたします。
中山徳幸(1968年長野県生まれ)は、1993年に武蔵野美術大学芸術学部油絵科を卒業、2003年にはシェル美術賞に入選、2006年には「VOCA展2006」に出品しています。また、海外でも積極的に作品を発表しており、2008年にノルウェー・ベルゲンで開催された個展は、当地でも高い評価を獲得しています。

中山は一貫して女性の顔、姿を描いており、特に2001年頃からは、顔を大きくクローズアップした作品を発表し続けています。
特定のモデルを設けることなく、作家自身の日々の記憶や経験から形成され、描かれるそれら女性たちの表情は、見る者の内面を投影するがごとく、さまざまな印象を作品の前に立つ者に与えます。

イムラアートギャラリーでは、2007年のイムラアートギャラリー京都での個展「Noriyuki Nakayama 1999-2002」より5年ぶり、東京では初めての開催となる本展。100号の大作「tomorrow」(2012年)を中心に、2009年以降に制作された作品約10点を展覧予定です。作家自身が「人間を描くことの意味を考える時期に来ている」と語るとおり、制作、そして作家としての原初を問うこととなる本展をぜひご高覧賜りたくご案内申し上げます。



今回出品している作品は、原点に戻り、もう一度自分を取り戻すということが、主な制作の動機になっているように思います。
アクリル絵の具を用い、古典技法を応用しながら、人物を描く。
画面上の情報量を出来るだけ抑え、日々出会う人々の表情の記憶を頼りに、形に納まりきらない何かを色や形に置き換える。
僕の作品の制作過程を言葉にすると、このようになります。
人間の顔という、人の心の在り方が大きなテーマとなってしまうモチーフを描いている以上、技術的な鍛錬が必要なのはもちろんですが、より深く自らの心を見つめ、自分自身の心のありようを問い続けることが、制作するうえで、とても重要な作業になります。
ここ何年かで、僕の作品も少しずつ変化してきました。
公私ともに様々な出来事があり、自分を見失いかけていた時もありましたが、今はもう一度、人間を描くことの意味を考える時期に来ているように思います。
それは難しい作業ですし、簡単に答えを出すことはできませんが、普遍的で、非常に価値のある試みの様にも思います。
自分なりのやり方しか出来ませんが、これからも、顔を描き続けることによって、人間の真実を求め、心の複雑さや素晴らしさを、表現していけたらと思います。

中山徳幸 

この度、イムラアートギャラリー東京では、2月10日(金)より、渡邊佳織個展「朝のグッドニュース」を開催いたします。

渡邊佳織(1984年静岡生)は、京都嵯峨芸術大学の修士課程(芸術研究科)を修了、髙島屋3会場を巡回した「ZIPANGU展-31人の気鋭作家が切り拓く現代日本のアートシーン。」に出品、映画の劇画協力も行うなど、日本画の枠におさまらず、あらゆる分野で注目を浴びている期待の若手日本画家です。

彼女は制作において「儀式を執り行う場所で感じられるような"緊張感"を生み出す作品を作ること」を意識しており、それを表現するモチーフとして「子供」を選びます。
大学での模写で培われた確かな日本画の技術によって描き出される、子供の透き通るような肌の美しさや、あどけなさと成熟さを感じさせる表情は子供特有の「神聖さ」をそのまま写し出します。

今回の個展では、ZIPANGU展にも出展した作品「輝々麒麟」を中心に展覧会全体を通じて「子供の旅」を描きます。決して明るいとは言い難い世界へ子供達がこれから旅を始めようとする様子は、どこか "不安感" を与えます。

3年振りの個展となる本展では、過去作から最新作品までを展覧いたします。展覧会タイトルは「朝のグッドニュース」。
「good news」は「福音」という意味も含み、不安とともにはじまりや希望も感じさせる展覧会名となりました。
ぜひご来廊、ご高覧賜りたくご案内申し上げます。

この度、イムラアートギャラリー東京では、佐藤雅晴個展、11月26日(土)より、映像作品展「取手エレジー」2012年1月7日(土)より、平面作品展「ココちゃん」を開催いたします。

佐藤雅晴(1973 年 大分県生まれ)は、1996 年東京芸術大学美術学部油画学科を卒業後、1999 年同大学大学院修士課程を修了。2000 年に拠点をドイツに移し活動後、2010年より茨城県取手市で制作しています。

2009年には岡本太郎現代芸術賞にて特別賞を受賞、「 No Mans Land」(フランス大使館旧事務所棟、東京)に出品など高く評価されています。また、国内にとどまらず、「D調」(関渡美術館、台北)、「City_net Asia 009」(ソウル市立美術館)などの国際展にも出品し、国際的活躍も期待されています。

佐藤が用いる平面作品の制作方法は極めて独自のものです。まず写真を撮影し、その写真データをパソコンに取り込みます。取り込んだ写真データをパソコン上で、トレースし、油絵と同じように下地を塗り、絵具を重ねるようにペンタブレットで描くのです。最終、写真データのみ消去され、佐藤がペンタブレットで描いたものだけが残ります。そうして生み出された作品には、写真でもなく絵画でもない、独特の空気をまとっています。

一方、佐藤の映像作品は、そうして作り出された複数の平面(静止画像)を重ねることで作られています。「取手エレジー」では、映像作品5点を展示いたします。「ココちゃん」は、近所に住んでいる2才の女の子をモデルに描いた平面作品の展覧会になります。

デジタルをアナログに駆使した佐藤の新作をぜひご高覧ください。

 



「エレジーとして蘇るもの――夢、狂気、気配」

佐藤雅晴は、アナログな手法で制作されたデジタルアニメーション、デジタル絵画などを通じて、都市あるいは都市の周辺部としての郊外や田舎における少し捩れた不思議な日常風景を描き出すことで、現代社会の背後にある問題を提起する。故にそれらの作品には、主題は佐藤の居住地に限定されながらも、地球上のどんな都市部とその周辺部にも当てはまり、何処で起きても不思議ではない現代性が現れる。

例えば初期のアニメーション代表作《Traum》(2004-2007)や、2008年頃から制作しているデジタル絵画では、自らの夢などに取材した不思議でオカルト的都市体験が描かれており、現実世界と夢世界の間を互いにスライドさせることで、ふたつの世界に潜む「気配」が表面化されているように見える。<br />《Calling》(2009-2010)では、都市の様々な場所で誰も居ないが故に鳴り続ける携帯や固定電話が電話を掛ける側と受ける側とのネットワークを暗示し、非常に現代的な都市の気配――ネットワークシステムとしての都市や遠隔コミュニケーションの発達によるユビキタスな存在態――を出現させる。また《Avatar11》(2009)では、11人の等身大のポートレートが様々なシーンを背景に観者側に振り返り続けることで、ネット上の背景もしくは情報によってのみキャラクターが規定されるようなヴァーチャルなアイデンティティの問題が提起される。

本展「取手エレジー」出展作《バインド・ドライブ》(2010-2011)では、「絆」という夫婦演歌を背景に雨の降り続く郊外――佐藤の居住地である茨城県取手市周辺の様々な無人の風景がある種クールで淡々とした視点で切り取られていく。最後には田んぼの真ん中に駐車された車内で天使(女)と悪魔(男)がカーステレオから流れる「絆」を口パクで歌い上げ、「捨てないでね」「捨てるもんか」と絆を確かめ合う。現在の日本では放射能と切り離して考えることができなくなった雨の下、この不可能な絆、不条理な関係がどこへ進むのかと我々は考えさせられる。
また新作映像では、取手の風景を元に、どこにでもありそうな郊外の風景にある種の物語を纏わせること、すなわち風景を情景に転化することを試みている。そこには、《バインド・ドライブ》の不条理な現実にも通じ、佐藤が3.11の震災以降に感じた心象風景が重ねられているのであろう。《エレジーシリーズ:桜》では、郊外の住宅地で桜吹雪が散る中、ブルーのジャージを着た女の人が交通ミラーに向かって手を振る。何かが不可解で不安になるのは、もしかしたら我々の心理がそうさせているのかもしれない。このように、佐藤の作品は情景として機能しながらも、観る私たちの想像力へと続きを委ね開かれている。それは必ずループになった映像が、絵画と同じようにどの瞬間から見ても成立し、観客が自由に鑑賞・構想できることを目指すことにも寄るのだろう。

佐藤の作品に共通して見られるある種の不可解さや違和感、あるいは摩擦のような要素は「完全な日常というイメージ」にかすかに入ったひび割れのように機能することで、観者である私たちが現実だと信じている「生の現実」にも照射されていく。この不可解さや不安感はおそらく、現代文明や管理された近代システム下で抑圧され居場所を失った「夢」、「狂気」、「気配」が表現として亡霊のように戻って来たことに依るのだろう。このように佐藤は、今後も世界中で続いて行く都市化という現象を内部から経験しつつ、ある種のエレジーとして表現することで、我々に「夢」、「狂気」、「気配」といった失われたものについて再考する機会を与えてくれるのだ。

椿 玲子/森美術館アシスタント・キュレーター
京都大学大学院、人間・環境学研究科、創造行為論修士、パリ第1大学(パンテオン・ソルボンヌ)哲学科、現代美術批評修士、カルティエ現代美術財団インターンなどを経て2002年より現職。
森美術館では「MAMプロジェクト007:サスキア・オルドウォーバース」、「MAMプロジェクト011:ジュール・ド・バランクール」などを企画。

この度、イムラアートギャラリー東京では、佐藤雅晴個展、11月26日(土)より、映像作品展「取手エレジー」2012年1月7日(土)より、平面作品展「ココちゃん」を開催いたします。

佐藤雅晴(1973 年 大分県生まれ)は、1996 年東京芸術大学美術学部油画学科を卒業後、1999 年同大学大学院修士課程を修了。2000 年に拠点をドイツに移し活動後、2010年より茨城県取手市で制作しています。
2009年には岡本太郎現代芸術賞にて特別賞を受賞、「 No Mans Land」(フランス大使館旧事務所棟、東京)に出品など高く評価されています。また、国内にとどまらず、「D調」(関渡美術館、台北)、「City_net Asia 009」(ソウル市立美術館)などの国際展にも出品し、国際的活躍も期待されています。

佐藤が用いる平面作品の制作方法は極めて独自のものです。まず写真を撮影し、その写真データをパソコンに取り込みます。取り込んだ写真データをパソコン上で、トレースし、油絵と同じように下地を塗り、絵具を重ねるようにペンタブレットで描くのです。最終、写真データのみ消去され、佐藤がペンタブレットで描いたものだけが残ります。そうして生み出された作品には、写真でもなく絵画でもない、独特の空気をまとっています。
一方、佐藤の映像作品は、そうして作り出された複数の平面(静止画像)を重ねることで作られています。「取手エレジー」では、映像作品5点を展示いたします。「ココちゃん」は、近所に住んでいる2才の女の子をモデルに描いた平面作品の展覧会になります。

デジタルをアナログに駆使した佐藤の新作をぜひご高覧ください。



「エレジーとして蘇るもの――夢、狂気、気配」

佐藤雅晴は、アナログな手法で制作されたデジタルアニメーション、デジタル絵画などを通じて、都市あるいは都市の周辺部としての郊外や田舎における少し捩れた不思議な日常風景を描き出すことで、現代社会の背後にある問題を提起する。故にそれらの作品には、主題は佐藤の居住地に限定されながらも、地球上のどんな都市部とその周辺部にも当てはまり、何処で起きても不思議ではない現代性が現れる。

例えば初期のアニメーション代表作《Traum》(2004-2007)や、2008年頃から制作しているデジタル絵画では、自らの夢などに取材した不思議でオカルト的都市体験が描かれており、現実世界と夢世界の間を互いにスライドさせることで、ふたつの世界に潜む「気配」が表面化されているように見える。<br />《Calling》(2009-2010)では、都市の様々な場所で誰も居ないが故に鳴り続ける携帯や固定電話が電話を掛ける側と受ける側とのネットワークを暗示し、非常に現代的な都市の気配――ネットワークシステムとしての都市や遠隔コミュニケーションの発達によるユビキタスな存在態――を出現させる。また《Avatar11》(2009)では、11人の等身大のポートレートが様々なシーンを背景に観者側に振り返り続けることで、ネット上の背景もしくは情報によってのみキャラクターが規定されるようなヴァーチャルなアイデンティティの問題が提起される。

本展「取手エレジー」出展作《バインド・ドライブ》(2010-2011)では、「絆」という夫婦演歌を背景に雨の降り続く郊外――佐藤の居住地である茨城県取手市周辺の様々な無人の風景がある種クールで淡々とした視点で切り取られていく。最後には田んぼの真ん中に駐車された車内で天使(女)と悪魔(男)がカーステレオから流れる「絆」を口パクで歌い上げ、「捨てないでね」「捨てるもんか」と絆を確かめ合う。現在の日本では放射能と切り離して考えることができなくなった雨の下、この不可能な絆、不条理な関係がどこへ進むのかと我々は考えさせられる。 また新作映像では、取手の風景を元に、どこにでもありそうな郊外の風景にある種の物語を纏わせること、すなわち風景を情景に転化することを試みている。そこには、《バインド・ドライブ》の不条理な現実にも通じ、佐藤が3.11の震災以降に感じた心象風景が重ねられているのであろう。《エレジーシリーズ:桜》では、郊外の住宅地で桜吹雪が散る中、ブルーのジャージを着た女の人が交通ミラーに向かって手を振る。何かが不可解で不安になるのは、もしかしたら我々の心理がそうさせているのかもしれない。このように、佐藤の作品は情景として機能しながらも、観る私たちの想像力へと続きを委ね開かれている。それは必ずループになった映像が、絵画と同じようにどの瞬間から見ても成立し、観客が自由に鑑賞・構想できることを目指すことにも寄るのだろう。

佐藤の作品に共通して見られるある種の不可解さや違和感、あるいは摩擦のような要素は「完全な日常というイメージ」にかすかに入ったひび割れのように機能することで、観者である私たちが現実だと信じている「生の現実」にも照射されていく。この不可解さや不安感はおそらく、現代文明や管理された近代システム下で抑圧され居場所を失った「夢」、「狂気」、「気配」が表現として亡霊のように戻って来たことに依るのだろう。このように佐藤は、今後も世界中で続いて行く都市化という現象を内部から経験しつつ、ある種のエレジーとして表現することで、我々に「夢」、「狂気」、「気配」といった失われたものについて再考する機会を与えてくれるのだ。

椿 玲子 森美術館アシスタント・キュレーター
京都大学大学院、人間・環境学研究科、創造行為論修士、パリ第1大学(パンテオン・ソルボンヌ)哲学科、現代美術批評修士、カルティエ現代美術財団インターンなどを経て2002年より現職。 森美術館では「MAMプロジェクト007:サスキア・オルドウォーバース」、「MAMプロジェクト011:ジュール・ド・バランクール」などを企画。

この度、イムラアートギャラリー東京では、10月29日(土)より、山﨑史生個展を開催いたします。

山﨑史生(1974年兵庫県生)は、多摩美術大学美術学部彫刻学科で学び、以来一貫して木彫を制作し続けています。
密やかで静かな雰囲気を湛えた作品に、近年はかつてないほどの存在感が加わりました。
年に数体しか作ることができないこともあって、これまで数えるほどしか展覧会に出品していませんが、今年は「ジパング展」にも出品し注目を集めました。

3年振りの個展となる本展では、2006年より取り組んでいる「静かな隣人」シリーズと、 2007年から制作している「horn」の最新作品群を展覧いたします。ぜひご来廊、ご高覧賜りたくご案内申し上げます。

この度、イムラアートギャラリー東京では、9月17日(土)より、土屋貴哉個展「バランスパラメータ」を開催いたします

土屋貴哉(1974年東京生)は、東京芸術大学絵画科(油画専攻)在学中より、「絵を描く前に考えることがあるのではないか」との問いからスタートし、映像、写真、平面、立体、インスタレーション、デジタルなど様々な媒体を駆使して作品を展開してきました。既製品(すでに在るもの)に極力手を加えず、かつ高い完成度で生み出される土屋の作品は、既成の約束ごとを破り、心地よい違和感を提示します。

イムラアートギャラリーでは初個展となる本展では、過去作から最新作品まで、多媒体による土屋の作品世界を展覧いたします。ぜひご来廊、ご高覧賜りたくご案内申し上げます。

また、9月17日(土)18時より、楠見清氏(首都大学東京准教授)をお招きし、作家と語り合いながら、土屋作品の魅力についてお話いただきます。こちらにも足をお運び頂けましたら幸いに存じます。

 


 

人はいつも自分の見たいように世界を見てしまう、といわれます。けれどこれは、こう見たいとさえ思えば世界はそう見えてくる、という積極的な可能性のあらわれともいえます。私の興味は、まさにこういった人の知覚の柔軟な性質にあり、また、この知覚をとおして立ち現れる世界のあり方にあります。

そして私がおこなっていることとは、この知覚と世界との関係性をさぐる行為のくりかえしといえます。それは、真実とは何かといったこととは違い、この目の前に広がる世界の見え方をいかに更新しえるか?という問いに対する素朴な実践ともいえます。

ドンペリ、巻尺、植木の剪定、消しゴム、ボーリング、オセロ、海水浴、サッカーグランド....、これらは今回の作品群に用いられる素材たちです。そこには一見まるで共通項をみつけることはできないかもしれません。ですが、それらは私の知覚を通して切り取られた世界の断片であり、それらおのおのの仕組みに向けられた私の知覚方法の共通項が、それらに因果関係を生み、この世界を支えている絶妙なバランス運動の隠れたパラメータにアクセスするためのまなざしとして機能するのではないかと思っています。

このような一連の態度から作られる私の作品たちは、必ずしも特別な方法により作られる訳ではないので、ときに不毛に映るかもしれません。けれど、手荷物は軽いほうがより深くダイレクトにこの世界を眺められるようにわたしには思えるのです。

土屋貴哉



計り知れない宇宙を測りきる
楠見清(美術評論家/首都大学東京准教授

土屋貴哉の作品は身のまわりにある日用品を選び出したり、日常の風景や行為の断片を切り取ったりすることでつくられている。見出したオブジェに極力手を加えることなく詩を思わせる題名を付ける手法は、マルセル・デュシャンのレディメイドの継承であることはいうまでもなかろうが、デュシャンがスツールに自転車の車輪を載せてからもうじき100年目を迎えようとしているいま私たちの前には台秤の上に載せられたドンペリが、さらにそのコルク栓と天井の間には突っ張り棒がある。ブレーメンの音楽隊の動物たちのような奇妙な姿で立ち上がった既製品たちには《ニュー・バランス》というタイトルが付けられている。これもまた20世紀初頭のボストンで「新たなる均整」を合言葉に扁平足矯正靴製造からスタートしたアスレチック・シューズ・メーカーの社名そのままの引用に思わずほくそ笑む。さらに、台秤のデジタル表示を覗き込みながら垂直のテンションで封じ込まれた金色の泡のことを思い浮かべれば、しばしうっとりした気分にさせられるだろう。

21世紀のレディメイドにはかつてのダダにあった破壊的な身振りはない。土屋に限らず、世界的に見てもネオ・コンセプチュアル以降のデュシャンピアンたちに継承されたのはユーモアやウィットであり、さらにナンセンスに代わって現代的でスタイリッシュなセンスが素材選びの尺度となる。ポップ・アーティストたちがマス・プロダクトに対するコンプレックスやオブセッションを原動力としたのに対し、修正レディメイドならぬこの"継承レディメイド"の作家たちは野山で摘んだ草花を生けるように日常生活のなかから何気ないものを抽出し自然の見立てとしてみせる。そのコンセプトは現代のセレクトショップやプロダクト雑誌に顕著な工業製品のデザインや機能に対する関心やこだわり、あるいはDJやデスクトップ・ミュージックの手法であるリミックスやエディットにも共通する感覚(センス)といってもいい。

あるいは、こういう言い方はどうだろう。かつてポップ・アートが善くも悪くも消費社会の壮大なパノラマを描いたように、2000年代はネオ・ポップに端をなすオタク世代のアーティストによってマンガやアニメを題材に情報メディア社会の大パノラマが描かれた。その片隅で土屋は消費社会や情報社会というシステムのミニチュアや物理モデルを組み立ててきた。たとえば、インターネット・オークションで落札した野球やサッカーの歴史的な名勝負の未使用チケットを額装しスポーツ・コラムを思わせる洒落たタイトルを付けた作品シリーズ(《小さく前へならえ》2001-03年)は、まるで情報メディアの川から採取した奇石か盆栽のような愉楽と風雅すらたたえている。ただの石ころに宇宙を見出す、その見立てにおいて作家の手垢は少なければ少ないほど、小さければ小さいほど善い。

「例えば宇宙の果てを想像してみる。するとその途端に想像は宇宙のフチまで引き戻される」(土屋貴哉、『思考の観察』カタログ)という作者の言葉につなげて言うなら、鉛筆で真っ黒に塗られた消しゴム(《Delete》2007年)はその極薄(アンフラマンス)の皮膜をもって観る者を宇宙のフチに立たせるのだ。

いわば、計り知れぬ宇宙を測りきる。そのために土屋が初期の作品からよく用いるものに、定規や巻尺、台秤や温度計、方眼紙といった目盛りのついた道具類がある。物の寸法や重量、現象の変化を計測し数値に置換するためのスケールは、測るという行為と計るという思考を一体にする。昨年発表されたコンピュータ・ディスプレイのなかに広がる1キロメートル四方の方眼紙をスクロールさせる《1000 Square meter》は私たちが日頃コンピュータ・マウスで移動する情報空間の精巧な1分の1スケール・モデルだった。今回発表される原寸大のサッカーフィールドの作品では目盛りに代わって芝の上に引かれた白線がプレイヤーを宇宙(ピッチ)のフチに立たせてくれるだろう。

さて、なくなった目盛りはどこへ行ったのかというと、写真作品《FLY》のなかで空に放り出されている。飛翔する巻尺は地上に落下すればデュシャンの《三つの停止原基》になるのかもしれないが、土屋の作品においては永遠に宙吊りにされた状態にある。空の大きさを測るためか、巻尺は直線的ではなく不定形の弧を描いたまま静止している。

作者はまったく意識していなかったそうだが、僕はこの作品からオノ・ヨーコを連想した。「この線はとても大きな円の一部である」と記した《青い部屋のイヴェント》の壁面に引かれたラインを三次元的な空間に投じたと想像しよう。そもそも空はオノの長年のテーマだし、タイトルの《FLY》には同名の実験映画もある。

土屋とオノのこの奇妙な符合はいったい何なのか。ほかにもオセロゲームを使った土屋の映像作品《二重スパイ》はオノのチェスの作品《プレイ・イット・バイ・トラスト》に重なる。2人に共通する作風が見られるのはまたおそらくデュシャンのせいだろう。だが、それは何もこの2人だけに限った話じゃない。

話の駒をさらに進めるためにここからはむしろ2人の違いについて考えてみる必要がある。黒と白のプレイヤーがランダムに入れ替わる対局とすべてが白い駒によって行われる対局は、ともに勝者がいないという主張に変わりはないが、土屋のオセロがいつまでたっても終わらないのに対し、オノのチェスは打つ前から結果が明らかだ。算術にたとえるならオノの解答は最初から整数でわかりやすいのだが(たとえば「世界平和」)、土屋の解答はいつまでも割り切れない無限小数でありながら実は3分の1のように視覚的に完璧なバランスをもった分数なのではないか。あるいは、それとも、土屋が求める解答はそもそも数字ではないのではないか。そのためには、まず物事の尺度として私たちが無条件で信頼を寄せる目盛りこそを消し去る必要がある(目盛りではなく目分量による計測方法、あるいは計測不可能な様態にこそある種の絶対優位性があるのではないかという彼の静かな主張は、目盛りのないアルコール棒状温度計の作品に《Perfect Job》というタイトルを付けていたことからも伺える)。

オノが世界に与えた最も影響力ある作品が「イマジン(想像しなさい)」で始まるインストラクションだとすれば、土屋が今後世界を変えていくために使うべきキーは《Delete》だろう。想像vs.消去。それは対極の行為のようでありながら同じ主張を唱えている(戦争は終わる──もしあなたがそれを消去(デリート)するならば)。そういえば、あの小さな黒い消しゴムはSF映画で見覚えのある謎の物体のミニチュアのようにも見える。

この度、イムラアートギャラリー東京では日野田崇 個展「新しい筋肉」を開催いたします。
本展は、2009年個展「変形アレゴリー」以来、当ギャラリーでは2年ぶりとなったイムラアートギャラリー京都での個展(2011年6月4日~7月23日)の巡回展となります。

セラミック・アーティストの日野田崇(1968 神戸市生まれ)は、1991年に大阪芸術大学芸術学部工芸学科陶芸コースを卒業し、現在は京都嵯峨芸術大学芸術学部の准教授です。

日野田は、陶土に日本のマンガやアメリカンコミックのような線や図形、絵をのせて作品を作ります。
作品は、造形、色、表面の図柄が混在しながらも共存しており、見る者は二次元(表面)と三次元(造形)の世界を往来します。日野田の作品は、有機的なかたちと、マンガという親しみやすい題材によって見る者を容易に近づかせます、実は物語のない断片的な情報や、不気味にも見える図柄の集まりということに気づくと、我々は戸惑い、不穏さを感じます。愛嬌と狡猾さが同居しているようなこれらの作品は、冷静に社会を見つめる作家の批判精神を代弁しているようにも見えます。
作品に描かれているように見える絵は、実はプラスチックシートを切り抜き、貼ってできた図柄であり、現在の日野田の制作には欠かせない方法です。この、日野田の精巧なつくりこみが、作品に存在感と説得力を与えます。

また日野田は、展示空間も徹底してつくりこみます。作品同様プラスチックシートを巧みに切り抜き、展示空間の壁、床、天井に計画的に時に自由に線や絵を描き(実際は貼る)ます。まるで作品から線や図柄が飛び出しているようにも見え、正に展示空間がひとつの世界となります。
このようにしてできあがる日野田の作品は「陶芸」という括りではおさまらず、あらゆる領域の往来を可能にしています。このような作品や展示方法は国内だけでなく海外でも評判を呼び、欧米やアジアでのグループ展にも数多く参加しています。

本展は、「新しい筋肉」と題し、日野田のヴィジョンによるこの先の人類のカタチを表現した作品約5点を展示予定です。今までにはない、紫や緑色を使用した作品も注目です。もちろん、プラスチックシートを駆使したインスタレーションを行います。

また、8月20日(土)18時より、小田島等氏(イラストレーター・デザイナー)をお迎えしての対談を行います。
本展をご高覧いただきますとともに、対談にも足をお運びいただけましたら幸いに存じます。

 



 小田島等 Hitoshi ODAJIMA

1972 年東京生まれ。イラストレーター・デザイナー。桑沢デザイン研究所卒業。1995 年よりフリーランスとして、CD ジャケットや書籍デザインの分野を中心に活躍。その後、イラストレーションやグラフィックデザインだけでなく、漫画や展示活動にも表現の領域を広げる。著作に『無 FOR SALE』(04 年)、『2027』(07 年/古屋蔵人、黒川知希との共著)、監修本に『1980 年代のポップ・イラストレーション』(09 年)。また、細野しんいちとのユニット「BEST MUSIC」としてインストCD 作品『MUSIC FOR SUPERMARKET』(07 年) をリリース。2010 年には初の作品集となる『ANONYMOUS POP 小田島等作品集』を上梓するなど精力的な活動を続けている。

小田島等 公式サイト http://www.odajimahitoshi.com/

 



この星の上に生命が誕生して以来、その肉体のかたちは常に環境と一体になってメタモルフォーゼを遂げてきた。
しかしヒトが環境を操作し激変させた結果、そのシステム自体が完全に破綻をきたしている。
骨も皮も筋肉ももうその目紛しい変化にはついていかないように感じられる。
しかし、ある音楽家が21世紀の音楽について尋ねられたとき、その答えの中で「人間はまだまだ原始的な段階なのであり、変化を受け入れることで新たな筋肉をつけるように、長い鍛錬の時期を経て変わっていくだろう」と述べていた。
それはかつてないミューテーション的な変化となるのか、古い倫理観を完全に塗り替えるものになるのか。
いずれにしても、魚がかつて陸上に上がって歩行動物になったくらいのドラスティックな変わりようであるのは間違いないように思える
そのとき僕たちは一体何処にいるのだろう?
まだ地球の上にいるだろうか?
ヒトが類として存続することがこれほど困難に感ぜられる現在、その岐路のヴィジョンが頭の中を去来している。

日野田崇

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