イムラアートギャラリー [京都/東京]

HOME > 検索結果

タグ「Takayoshi TSUCHIYA」が付けられているもの

会場:司3331 204号室
会期:2016年10月15日(土)〜29日(土)
出品作家:土屋貴哉

会場:旧所沢市立第2学校給食センター(東京)
会期:2015年8月29日(土)~9月23日(水)
出品作家:土屋貴哉

イムラアートギャラリー東京では、土屋貴哉+アタカケンタロウ展「昨日はどこへいった。」を開催いたします。

土屋貴哉(美術家)とアタカケンタロウ(建築家)コラボレーションによる本展「昨日はどこへいった。」は、2013年春、当ギャラ リーの新スペースへの移転にあわせて、スペースの受渡し後の改装からオープンまでの過程と時間を扱い、好評を博した同名のメディアイ ンスタレーションの続編。今回は当スペースオープン後の様子も追加収録し、スペースの立ち上げからクローズまでの時間を包み込んだ完 全版。1周/分の速度で回転するプロジェクターの光が、照射先の過去の層を薄皮をめくる様に原寸大で映し出す。

およそ1年半に渡り、ギャラリーの中心にカメラを据えて定期的に15°ずつ回転させながら撮影し、数千枚におよぶ撮影画像をつなぎ合 わせた長尺画像を、「一分間に一回転するプロジェクター」で撮影した同じ場所に回転投影しつづける。回転するたびに徐々に壁が解体さ れたり新たな壁が作られたり、壁の色が変わっていったり、展覧会の様子が映し出されていく。映像はやがて(人の記憶がそうであるよう に)時系列を行ったり来たりし始め、やがて改修前のギャラリーの状態(ふりだし)へと戻っていく。

■協力:端裕人氏(写真家)、秋廣誠氏

----------------

「昨日はどこへいった。」

よく、時間だけは全ての人に平等な資源だといわれたり、時間感覚は年齢の逆数に比例するといわれる。
そんな平等な資源の中、重力に従い垂直方向に落下する私。衝突までのコンマ数秒間のできごとは、やっぱりさほど長くも感じられず結局コンマ数秒 間、一瞬の時間感覚だった。

2012年暮れ、われわれは幾度となく西荻窪の路地裏の暗黒大陸で、安酒に浸りながら打合せを繰り返した。いつもの店のいつもの席に座る。注文す る肴も酒も気付くと毎回だいたい一緒。店主は勿論、集まってくる客たちも何となくいつも代わり映えのないなか、毎回違うのは打ち合わせの議題と本 日のおすすめくらい。いつも19時過ぎから始まったわれわれの打合せはこんな風に繰り返された。
打合せはいつも順当に進みそして酒も進んだ。けれど本日のおすすめ以外ほとんど変化のない状況(シーン)に毎回囲まれてると、同一チャプターが繰 り返し再生される物語のなかに居るような違和を感じる。幾分酔っていたせいもあるだろう。それはシールのように、われわれの周囲から時間そのもの がめくれ上がっていくような、またはわれわれの所属とは異なる時間が周囲に貼り付いていくような、不思議な感覚へとつづいていった。

そんないつかの昨日を、骨盤を割った私は松葉杖を両手に持ち、病院周りのいつもの順路を時計回りにリハビリ歩行を繰り返しながら思い出す。

ひとの記憶はその時の周囲の状況と紐付けされセットでインプットされるというが、われわれにしてみたら、その周囲の状況にほとんど差異がない為、 打合せを重ねるにつれ、話し合ってきた内容の時系列がどんどん崩壊していき、トピックスのヒエラルキーもだんだん曖昧になっていった。今になって みると、毎回欠かさず本日のおすすめを注文してたら幾分この時系列が崩壊していく症状も和らいだんではないかと思う。

あれからどれくらいの時が経っただろうか、時系列が分らない。けれどおよそ一年半。
当スペースのこけら落として開催された前回展「昨日はどこへいった。」ののち、この場で開催された幾つもの展覧会。それらの記録も追加収録した今 回は、この場の立ち上げからクローズまでの時間を包み込んだ完全版。
時をいかに記述するか、視界をいかに切り抜きすくい上げるか、そしてそれらをどのように定着できるか。
記憶は嘘をつく、昨日はどこへいった?

土屋貴哉(土屋貴哉+アタカケンタロウ)

会場:Centro Cultural FIESP(FIESP文化センター)- SESI Art Gallery(Paulista Avenue 1.313ブラジル・サンパウロ市)
会期:2014年8月25日(月)~10月5日(日)
出品作家:佐藤雅晴、土屋貴哉

イムラアートギャラリー東京では、「Group show 橋爪彩・佐藤雅晴・土屋貴哉」を開催いたします。近年、美術館を中心に発表を続ける所属作家3名の本展では、各作家の過去の主要作品を展示いたします。本展を通して、作家それぞれの展開の一貫性と多様性を楽しんでいただければと思います。


橋爪彩は、1980年東京生まれ。東京芸術大学修士課程修了後、さらなる探求のために、ベルリン・パリへと拠点を移し、ヨーロッパで生活しながら制作をするという、自身の状況と日々の記録から生まれた「Red Shoes Diary」シリーズを展開。2010年には日本に戻り、西洋中心主義的美術のあり方を問う「After Image」や「innocence, ignorance and insanity」シリーズを制作しています。
2013年の「DOMANI展」(国立新美術館)で、渡欧前の作品から最新作までを一堂に展示し、その画業が高く評価されました。今年は、「ノスタルジー&ファンタジー展」( 国立国際美術館)、「高松コンテンポラリーアート・アニュアル展」(高松市美術館)に出品、またコスメブランド ポーラ『RED B.A.』のメインビジュアルを手がけるなど、活躍目覚ましい若手作家のひとりです。
本展では、島田雅彦著『美しい魂』の装丁を手掛けた2003年当時に制作した作品を含め、「Red Shoes Diary」以前の作品を中心に展示いたします。


佐藤雅晴は、1973年大分生まれ。東京芸術大学修士課程修了後、2000年にドイツに渡り、帰国するまでの10年間に独自の表現を生み出しました。パソコンに取り込んだ実写データの輪郭をトレースし、油絵を描くようにパソコンで色彩を重ねて制作される佐藤のデジタルペインティングは、写真のようで写真ではなく、絵画ではあるがそこに絵具のマチエールはないという、独特の空気感をまとっています。アニメーションは、デジタルペインティングのデータをつなぎ合わせて制作されます。
2013年には「ナイン・ホール 佐藤雅晴展」川崎市市民ミュージアム(神奈川) 、「楽園創造 -芸術と日常の新地平- 」ギャラリーαM(東京)の二か所で個展を開催。今年は、「日常/オフレコ」KAAT神奈川芸術劇場(神奈川) 、「Duality of Existence - Post Fukushima」フリードマン・ベンダ(ニューヨーク) に出品するなど、国際的にも活躍しています。
本展では、ドイツから帰国した2010年以降のデジタルペインティングとアニメーションを展示いたします。


土屋貴哉は、1974年東京都生まれ。東京芸術大学大学院修士課程修了。1990年代より、日常の環境システムにきわめてシンプルな方法で介入し、知覚に揺さぶりをかける作品を発表。それらは、映像・写真・平面・立体・インスタレーションなど、多メディアに渡っています。近年は新たな試みとして、ネットアートシリーズも手掛けています。
2013年にはイムラアートギャラリー東京の改築を題材とし、建築家のアタカケンタロウとともに、場の変容と時の顕在化を試みたインスタレーションプロジェクト「昨日はどこへいった。」を発表。
今年、「Uphill」横浜市民ギャラリーあざみ野エントランスロビー(神奈川) 、「1974年ニ生マレテ」群馬県立近代美術館(群馬) に出品、また8月にはサンパウロで開催されるメディアアートの国際展「FILE 2014」にも参加するなど、国内外で活躍しています。
本展では、立体、写真、ネットなど様々なメディアで展開される過去作品を展示いたします。

土屋貴哉 Uphill

■会場:横浜市民ギャラリーあざみ野エントランスロビー
■会期:2014年4月15日[火]~6月8日[日]
■出品作家:土屋貴哉

土屋貴哉グループ展

KABEGIWA 第12回展「掲示」

 

■会場:日本大学藝術学部江古田校舎
■会期:2013年11月25日(月)〜12月7日(土)
■出品作家:土屋貴哉

土屋貴哉グループ展
さっぽろアートステージ 2013

■会場:札幌駅前通地下歩行空間
■会期:2013年11月9日(土)〜12月8日(日)
■出品作家:土屋貴哉

イムラアートギャラリー東京は、神楽坂より移転し、2013年5月11日(土) 3331 Arts Chiyoda #206にオープンいたします。

新たな場所でのギャラリー再開にあたり、現代のヴィジュアルアートを扱うギャラリーとして、人の知覚を巧に操る土屋貴哉(美術家)とアタカケンタロウ(建築家)に、ギャラリーの新スペースを委ねてみたいと思いました。
土屋貴哉とアタカケンタロウよるコラボレーション展「昨日はどこへいった。」は、ギャラリースペースの改装からオープンまでの過程と時間を扱った、映像・建築・オブジェ・ペイントなどの様々なメディアと手法が交錯するインスタレーションプロジェクトです。

撮り集めた「昨日」の集積が、映像としてスペースの壁面に投影され、現存するオブジェ・ペイント・建築と重なって関わりを持ちはじめるとき、私たちの目には昨日と今日が不思議に重なり合い、時系列はねじれ、世界のもう一つの相を感じることができるでしょう。
「昨日はどこへいった。」 人の不確かで柔軟な知覚と記憶を介した途端、確定されたはずの「昨日」を探すのは、容易ではないかもしれません。
ぜひご高覧いただきますようお願い申し上げます。

■協力:端裕人氏(写真家)、秋廣誠氏
■協賛:ターナー色彩



土屋貴哉
美術家。1974年東京都生まれ。2001年東京芸術大学大学院美術研究科修士課程修了。90年代後期より、日常のものごとへの最小限の介入をほどこした作品を制作。それらは、映像・写真・平面・立体・インスタレーションなど、多メディアに渡り展開される。近年は新たな試みとしてPC上で展開するプログラム作品シリーズもスタート。

アタカケンタロウ/安宅研太郎
建築家。1974年埼玉県生れ、2001年東京芸術大学大学院美術研究科建築専攻修士課程修了。2003年にアタカケンタロウ建築計画事務所を設立し、住宅から集合住宅、研修施設、幼稚園、パブリックアートなど様々なプロジェクトを手掛ける。2007年東京建築士会住宅建築賞、2011年日本建築学会作品選奨など受賞多数。現在、東京芸術大学、芝浦工業大学、京都造形芸術大学など6つの大学で非常勤講師を勤めるほか、岩手県遠野市で馬の育成とその堆肥による有機農業を中心とした地域づくりに取り組んでいる。

会場:東京国際フォーラム/ブースNo. F08

会期:2013年3月22日(金)〜3月24日(日)

出品作家:山本太郎・佐藤雅晴・山﨑史生・土屋貴哉・渡邊佳織・吉田翔・宮本佳美・極並佑・三好彩・桃田有加里

この度、イムラアートギャラリー東京では、9月17日(土)より、土屋貴哉個展「バランスパラメータ」を開催いたします

土屋貴哉(1974年東京生)は、東京芸術大学絵画科(油画専攻)在学中より、「絵を描く前に考えることがあるのではないか」との問いからスタートし、映像、写真、平面、立体、インスタレーション、デジタルなど様々な媒体を駆使して作品を展開してきました。既製品(すでに在るもの)に極力手を加えず、かつ高い完成度で生み出される土屋の作品は、既成の約束ごとを破り、心地よい違和感を提示します。

イムラアートギャラリーでは初個展となる本展では、過去作から最新作品まで、多媒体による土屋の作品世界を展覧いたします。ぜひご来廊、ご高覧賜りたくご案内申し上げます。

また、9月17日(土)18時より、楠見清氏(首都大学東京准教授)をお招きし、作家と語り合いながら、土屋作品の魅力についてお話いただきます。こちらにも足をお運び頂けましたら幸いに存じます。

 


 

人はいつも自分の見たいように世界を見てしまう、といわれます。けれどこれは、こう見たいとさえ思えば世界はそう見えてくる、という積極的な可能性のあらわれともいえます。私の興味は、まさにこういった人の知覚の柔軟な性質にあり、また、この知覚をとおして立ち現れる世界のあり方にあります。

そして私がおこなっていることとは、この知覚と世界との関係性をさぐる行為のくりかえしといえます。それは、真実とは何かといったこととは違い、この目の前に広がる世界の見え方をいかに更新しえるか?という問いに対する素朴な実践ともいえます。

ドンペリ、巻尺、植木の剪定、消しゴム、ボーリング、オセロ、海水浴、サッカーグランド....、これらは今回の作品群に用いられる素材たちです。そこには一見まるで共通項をみつけることはできないかもしれません。ですが、それらは私の知覚を通して切り取られた世界の断片であり、それらおのおのの仕組みに向けられた私の知覚方法の共通項が、それらに因果関係を生み、この世界を支えている絶妙なバランス運動の隠れたパラメータにアクセスするためのまなざしとして機能するのではないかと思っています。

このような一連の態度から作られる私の作品たちは、必ずしも特別な方法により作られる訳ではないので、ときに不毛に映るかもしれません。けれど、手荷物は軽いほうがより深くダイレクトにこの世界を眺められるようにわたしには思えるのです。

土屋貴哉



計り知れない宇宙を測りきる
楠見清(美術評論家/首都大学東京准教授

土屋貴哉の作品は身のまわりにある日用品を選び出したり、日常の風景や行為の断片を切り取ったりすることでつくられている。見出したオブジェに極力手を加えることなく詩を思わせる題名を付ける手法は、マルセル・デュシャンのレディメイドの継承であることはいうまでもなかろうが、デュシャンがスツールに自転車の車輪を載せてからもうじき100年目を迎えようとしているいま私たちの前には台秤の上に載せられたドンペリが、さらにそのコルク栓と天井の間には突っ張り棒がある。ブレーメンの音楽隊の動物たちのような奇妙な姿で立ち上がった既製品たちには《ニュー・バランス》というタイトルが付けられている。これもまた20世紀初頭のボストンで「新たなる均整」を合言葉に扁平足矯正靴製造からスタートしたアスレチック・シューズ・メーカーの社名そのままの引用に思わずほくそ笑む。さらに、台秤のデジタル表示を覗き込みながら垂直のテンションで封じ込まれた金色の泡のことを思い浮かべれば、しばしうっとりした気分にさせられるだろう。

21世紀のレディメイドにはかつてのダダにあった破壊的な身振りはない。土屋に限らず、世界的に見てもネオ・コンセプチュアル以降のデュシャンピアンたちに継承されたのはユーモアやウィットであり、さらにナンセンスに代わって現代的でスタイリッシュなセンスが素材選びの尺度となる。ポップ・アーティストたちがマス・プロダクトに対するコンプレックスやオブセッションを原動力としたのに対し、修正レディメイドならぬこの"継承レディメイド"の作家たちは野山で摘んだ草花を生けるように日常生活のなかから何気ないものを抽出し自然の見立てとしてみせる。そのコンセプトは現代のセレクトショップやプロダクト雑誌に顕著な工業製品のデザインや機能に対する関心やこだわり、あるいはDJやデスクトップ・ミュージックの手法であるリミックスやエディットにも共通する感覚(センス)といってもいい。

あるいは、こういう言い方はどうだろう。かつてポップ・アートが善くも悪くも消費社会の壮大なパノラマを描いたように、2000年代はネオ・ポップに端をなすオタク世代のアーティストによってマンガやアニメを題材に情報メディア社会の大パノラマが描かれた。その片隅で土屋は消費社会や情報社会というシステムのミニチュアや物理モデルを組み立ててきた。たとえば、インターネット・オークションで落札した野球やサッカーの歴史的な名勝負の未使用チケットを額装しスポーツ・コラムを思わせる洒落たタイトルを付けた作品シリーズ(《小さく前へならえ》2001-03年)は、まるで情報メディアの川から採取した奇石か盆栽のような愉楽と風雅すらたたえている。ただの石ころに宇宙を見出す、その見立てにおいて作家の手垢は少なければ少ないほど、小さければ小さいほど善い。

「例えば宇宙の果てを想像してみる。するとその途端に想像は宇宙のフチまで引き戻される」(土屋貴哉、『思考の観察』カタログ)という作者の言葉につなげて言うなら、鉛筆で真っ黒に塗られた消しゴム(《Delete》2007年)はその極薄(アンフラマンス)の皮膜をもって観る者を宇宙のフチに立たせるのだ。

いわば、計り知れぬ宇宙を測りきる。そのために土屋が初期の作品からよく用いるものに、定規や巻尺、台秤や温度計、方眼紙といった目盛りのついた道具類がある。物の寸法や重量、現象の変化を計測し数値に置換するためのスケールは、測るという行為と計るという思考を一体にする。昨年発表されたコンピュータ・ディスプレイのなかに広がる1キロメートル四方の方眼紙をスクロールさせる《1000 Square meter》は私たちが日頃コンピュータ・マウスで移動する情報空間の精巧な1分の1スケール・モデルだった。今回発表される原寸大のサッカーフィールドの作品では目盛りに代わって芝の上に引かれた白線がプレイヤーを宇宙(ピッチ)のフチに立たせてくれるだろう。

さて、なくなった目盛りはどこへ行ったのかというと、写真作品《FLY》のなかで空に放り出されている。飛翔する巻尺は地上に落下すればデュシャンの《三つの停止原基》になるのかもしれないが、土屋の作品においては永遠に宙吊りにされた状態にある。空の大きさを測るためか、巻尺は直線的ではなく不定形の弧を描いたまま静止している。

作者はまったく意識していなかったそうだが、僕はこの作品からオノ・ヨーコを連想した。「この線はとても大きな円の一部である」と記した《青い部屋のイヴェント》の壁面に引かれたラインを三次元的な空間に投じたと想像しよう。そもそも空はオノの長年のテーマだし、タイトルの《FLY》には同名の実験映画もある。

土屋とオノのこの奇妙な符合はいったい何なのか。ほかにもオセロゲームを使った土屋の映像作品《二重スパイ》はオノのチェスの作品《プレイ・イット・バイ・トラスト》に重なる。2人に共通する作風が見られるのはまたおそらくデュシャンのせいだろう。だが、それは何もこの2人だけに限った話じゃない。

話の駒をさらに進めるためにここからはむしろ2人の違いについて考えてみる必要がある。黒と白のプレイヤーがランダムに入れ替わる対局とすべてが白い駒によって行われる対局は、ともに勝者がいないという主張に変わりはないが、土屋のオセロがいつまでたっても終わらないのに対し、オノのチェスは打つ前から結果が明らかだ。算術にたとえるならオノの解答は最初から整数でわかりやすいのだが(たとえば「世界平和」)、土屋の解答はいつまでも割り切れない無限小数でありながら実は3分の1のように視覚的に完璧なバランスをもった分数なのではないか。あるいは、それとも、土屋が求める解答はそもそも数字ではないのではないか。そのためには、まず物事の尺度として私たちが無条件で信頼を寄せる目盛りこそを消し去る必要がある(目盛りではなく目分量による計測方法、あるいは計測不可能な様態にこそある種の絶対優位性があるのではないかという彼の静かな主張は、目盛りのないアルコール棒状温度計の作品に《Perfect Job》というタイトルを付けていたことからも伺える)。

オノが世界に与えた最も影響力ある作品が「イマジン(想像しなさい)」で始まるインストラクションだとすれば、土屋が今後世界を変えていくために使うべきキーは《Delete》だろう。想像vs.消去。それは対極の行為のようでありながら同じ主張を唱えている(戦争は終わる──もしあなたがそれを消去(デリート)するならば)。そういえば、あの小さな黒い消しゴムはSF映画で見覚えのある謎の物体のミニチュアのようにも見える。

1
NAVIGATION
  • HOME
  • EXHIBITION
  • NEWS
  • ARTISTS
  • ABOUT
get in touch
  • ABOUT
  • CONTACT US
page top