この度、イムラアートギャラリー東京では、9月17日(土)より、土屋貴哉個展「バランスパラメータ」を開催いたします
土屋貴哉(1974年東京生)は、東京芸術大学絵画科(油画専攻)在学中より、「絵を描く前に考えることがあるのではないか」との問いからスタートし、映像、写真、平面、立体、インスタレーション、デジタルなど様々な媒体を駆使して作品を展開してきました。既製品(すでに在るもの)に極力手を加えず、かつ高い完成度で生み出される土屋の作品は、既成の約束ごとを破り、心地よい違和感を提示します。
イムラアートギャラリーでは初個展となる本展では、過去作から最新作品まで、多媒体による土屋の作品世界を展覧いたします。ぜひご来廊、ご高覧賜りたくご案内申し上げます。
また、9月17日(土)18時より、楠見清氏(首都大学東京准教授)をお招きし、作家と語り合いながら、土屋作品の魅力についてお話いただきます。こちらにも足をお運び頂けましたら幸いに存じます。
人はいつも自分の見たいように世界を見てしまう、といわれます。けれどこれは、こう見たいとさえ思えば世界はそう見えてくる、という積極的な可能性のあらわれともいえます。私の興味は、まさにこういった人の知覚の柔軟な性質にあり、また、この知覚をとおして立ち現れる世界のあり方にあります。
そして私がおこなっていることとは、この知覚と世界との関係性をさぐる行為のくりかえしといえます。それは、真実とは何かといったこととは違い、この目の前に広がる世界の見え方をいかに更新しえるか?という問いに対する素朴な実践ともいえます。
ドンペリ、巻尺、植木の剪定、消しゴム、ボーリング、オセロ、海水浴、サッカーグランド....、これらは今回の作品群に用いられる素材たちです。そこには一見まるで共通項をみつけることはできないかもしれません。ですが、それらは私の知覚を通して切り取られた世界の断片であり、それらおのおのの仕組みに向けられた私の知覚方法の共通項が、それらに因果関係を生み、この世界を支えている絶妙なバランス運動の隠れたパラメータにアクセスするためのまなざしとして機能するのではないかと思っています。
このような一連の態度から作られる私の作品たちは、必ずしも特別な方法により作られる訳ではないので、ときに不毛に映るかもしれません。けれど、手荷物は軽いほうがより深くダイレクトにこの世界を眺められるようにわたしには思えるのです。
土屋貴哉
計り知れない宇宙を測りきる
楠見清(美術評論家/首都大学東京准教授
土屋貴哉の作品は身のまわりにある日用品を選び出したり、日常の風景や行為の断片を切り取ったりすることでつくられている。見出したオブジェに極力手を加えることなく詩を思わせる題名を付ける手法は、マルセル・デュシャンのレディメイドの継承であることはいうまでもなかろうが、デュシャンがスツールに自転車の車輪を載せてからもうじき100年目を迎えようとしているいま私たちの前には台秤の上に載せられたドンペリが、さらにそのコルク栓と天井の間には突っ張り棒がある。ブレーメンの音楽隊の動物たちのような奇妙な姿で立ち上がった既製品たちには《ニュー・バランス》というタイトルが付けられている。これもまた20世紀初頭のボストンで「新たなる均整」を合言葉に扁平足矯正靴製造からスタートしたアスレチック・シューズ・メーカーの社名そのままの引用に思わずほくそ笑む。さらに、台秤のデジタル表示を覗き込みながら垂直のテンションで封じ込まれた金色の泡のことを思い浮かべれば、しばしうっとりした気分にさせられるだろう。
21世紀のレディメイドにはかつてのダダにあった破壊的な身振りはない。土屋に限らず、世界的に見てもネオ・コンセプチュアル以降のデュシャンピアンたちに継承されたのはユーモアやウィットであり、さらにナンセンスに代わって現代的でスタイリッシュなセンスが素材選びの尺度となる。ポップ・アーティストたちがマス・プロダクトに対するコンプレックスやオブセッションを原動力としたのに対し、修正レディメイドならぬこの"継承レディメイド"の作家たちは野山で摘んだ草花を生けるように日常生活のなかから何気ないものを抽出し自然の見立てとしてみせる。そのコンセプトは現代のセレクトショップやプロダクト雑誌に顕著な工業製品のデザインや機能に対する関心やこだわり、あるいはDJやデスクトップ・ミュージックの手法であるリミックスやエディットにも共通する感覚(センス)といってもいい。
あるいは、こういう言い方はどうだろう。かつてポップ・アートが善くも悪くも消費社会の壮大なパノラマを描いたように、2000年代はネオ・ポップに端をなすオタク世代のアーティストによってマンガやアニメを題材に情報メディア社会の大パノラマが描かれた。その片隅で土屋は消費社会や情報社会というシステムのミニチュアや物理モデルを組み立ててきた。たとえば、インターネット・オークションで落札した野球やサッカーの歴史的な名勝負の未使用チケットを額装しスポーツ・コラムを思わせる洒落たタイトルを付けた作品シリーズ(《小さく前へならえ》2001-03年)は、まるで情報メディアの川から採取した奇石か盆栽のような愉楽と風雅すらたたえている。ただの石ころに宇宙を見出す、その見立てにおいて作家の手垢は少なければ少ないほど、小さければ小さいほど善い。
「例えば宇宙の果てを想像してみる。するとその途端に想像は宇宙のフチまで引き戻される」(土屋貴哉、『思考の観察』カタログ)という作者の言葉につなげて言うなら、鉛筆で真っ黒に塗られた消しゴム(《Delete》2007年)はその極薄(アンフラマンス)の皮膜をもって観る者を宇宙のフチに立たせるのだ。
いわば、計り知れぬ宇宙を測りきる。そのために土屋が初期の作品からよく用いるものに、定規や巻尺、台秤や温度計、方眼紙といった目盛りのついた道具類がある。物の寸法や重量、現象の変化を計測し数値に置換するためのスケールは、測るという行為と計るという思考を一体にする。昨年発表されたコンピュータ・ディスプレイのなかに広がる1キロメートル四方の方眼紙をスクロールさせる《1000 Square meter》は私たちが日頃コンピュータ・マウスで移動する情報空間の精巧な1分の1スケール・モデルだった。今回発表される原寸大のサッカーフィールドの作品では目盛りに代わって芝の上に引かれた白線がプレイヤーを宇宙(ピッチ)のフチに立たせてくれるだろう。
さて、なくなった目盛りはどこへ行ったのかというと、写真作品《FLY》のなかで空に放り出されている。飛翔する巻尺は地上に落下すればデュシャンの《三つの停止原基》になるのかもしれないが、土屋の作品においては永遠に宙吊りにされた状態にある。空の大きさを測るためか、巻尺は直線的ではなく不定形の弧を描いたまま静止している。
作者はまったく意識していなかったそうだが、僕はこの作品からオノ・ヨーコを連想した。「この線はとても大きな円の一部である」と記した《青い部屋のイヴェント》の壁面に引かれたラインを三次元的な空間に投じたと想像しよう。そもそも空はオノの長年のテーマだし、タイトルの《FLY》には同名の実験映画もある。
土屋とオノのこの奇妙な符合はいったい何なのか。ほかにもオセロゲームを使った土屋の映像作品《二重スパイ》はオノのチェスの作品《プレイ・イット・バイ・トラスト》に重なる。2人に共通する作風が見られるのはまたおそらくデュシャンのせいだろう。だが、それは何もこの2人だけに限った話じゃない。
話の駒をさらに進めるためにここからはむしろ2人の違いについて考えてみる必要がある。黒と白のプレイヤーがランダムに入れ替わる対局とすべてが白い駒によって行われる対局は、ともに勝者がいないという主張に変わりはないが、土屋のオセロがいつまでたっても終わらないのに対し、オノのチェスは打つ前から結果が明らかだ。算術にたとえるならオノの解答は最初から整数でわかりやすいのだが(たとえば「世界平和」)、土屋の解答はいつまでも割り切れない無限小数でありながら実は3分の1のように視覚的に完璧なバランスをもった分数なのではないか。あるいは、それとも、土屋が求める解答はそもそも数字ではないのではないか。そのためには、まず物事の尺度として私たちが無条件で信頼を寄せる目盛りこそを消し去る必要がある(目盛りではなく目分量による計測方法、あるいは計測不可能な様態にこそある種の絶対優位性があるのではないかという彼の静かな主張は、目盛りのないアルコール棒状温度計の作品に《Perfect Job》というタイトルを付けていたことからも伺える)。
オノが世界に与えた最も影響力ある作品が「イマジン(想像しなさい)」で始まるインストラクションだとすれば、土屋が今後世界を変えていくために使うべきキーは《Delete》だろう。想像vs.消去。それは対極の行為のようでありながら同じ主張を唱えている(戦争は終わる──もしあなたがそれを消去(デリート)するならば)。そういえば、あの小さな黒い消しゴムはSF映画で見覚えのある謎の物体のミニチュアのようにも見える。